2007年

ーーー4/3ーーー 複雑な組み手

 木工の世界では、45度の角度のことを「留(とめ)」と呼ぶ。何故そう呼ぶのかは分からない。大辞林で調べても、載っていない。ちなみに90度は「矩(かね)」と言う。こちらは辞書に載っていた。

 二枚の板を矩で接続し、その合わせ目を留にするという構造がある。板どうしは90度で接続されているのだが、両者が接する面は45度という形。賞状を入れる額縁の隅の形と言えば、分かり易いだろうか。 

 そのような留継ぎにもいろいろなやり方がある。簡単なのは、部材の先端を45度に切り、お互いを合わせて接着するもの。こういうのをイモ付けと呼ぶ。イモでは強度が心配なので、釘で止めたり、補強の板を入れたりする。補強を入れれば、意匠的には多少の難となる場合もある。 

 画像は、留継ぎの中で最も高度なものといわれる「留包み蟻ホゾ」。呼び方には諸説あるが、要するに留継ぎであり、接続部が組み手(ホゾ)になっており、その組み手のコマが末広がりの形(蟻と言う)になっているもの。組み上がればイモ付けと同じ外観だが、見えないところで強度の高い組み手になっている。

 実はこういう技法を、私は今まで試したことがなかった。極めて個人的な感覚から、留が好きではなかったからである。

 必要に迫られて留継ぎをする場合には、イモ付けに補強を入れるということでしのいで来た。それで別に何の問題も無かったからである。特に額縁の場合は、「引き込み」という補強の技で決まりの感があった。

 今回、ある方面からちょっと刺激があり、この「留包み蟻ホゾ」を試してみた。上手くいくかどうかは不明であった。なにしろ初めてなのだから。

 この組み手は初めてだが、他の種類の組み手は、いろいろやったことがある。その経験とノウハウが、多いに助けになった。想像していたよりも簡単に試作品が完成した。

 この技法は、接合部の形状が入り組んでいて、加工が複雑になるので「最高難度」と位置づけられている。しかし、今回やってみて感じたのは、組み手が部材の内部に隠れてしまって見えないために、ある程度のごまかしができるということ。普通の組み手は、粗雑な加工をやるとコマの間に隙間ができてしまい、見た目が悪くなる。しかしこの技法では、そんな心配は無い。組み手が見えないのだから。

 「良い木工仕事は、見えないところに手を入れている」などと言われる。この組み手も、そのような代物だと感じた。どれくらいの精度で作られているかは、製作者本人しか分からない。それどころか、この内部に複雑な組み手が施されていることさえ、言われなければ分からない。

 将来に渡って壊れなければ、製作者の工夫と努力は封印されたままとなるのである。
 


ーーー4/10ーーー 機械屋の事情

 
木工機械の刃物の研磨をお願いしている機械屋が市内にある。私が開業して以来だから、17年ごしのお付き合いだ。

 先日、いつものように刃物を持って行ったら、外出中との札がかかげてあった。めずらしいことだった。オーナは外回りで不在がちだが、職人のTさんはいつも作業場で仕事をしている。たまたま休みを取っているのかと思った。札に書かれていた携帯番号に連絡を取り、刃物を置いて帰った。

 後日受け取りに行ったら、やはり外出中の札が掛かっていた。何か様子が変だと、嫌な予感がした。

 さらに2〜3日経って、娘を駅に迎えに行った帰りに立ち寄った。時間が夕方遅かったので、この時間ならオーナーが戻っていると予想した。

 やはり例の札が掛かっていて、ドアは開かなかった。しかし奥で人の気配がするので、声をかけると、オーナーが出て来た。

 品物は出来上がっていた。受け取りながら立ち話をして、Tさんがいないのは、体の具合でも悪いのかと訊ねた。そしたら、辞めてもらったとの返事が返ってきた。仕事が減って、給料を払えなくなったからという理由だった。

 この地域の木工業も景気が悪く、仕事が回らないので、研磨の仕事が激減したとのこと。そう言えばここ2〜3年、Tさんは作業場の中で暇そうにしていたのを思い出す。

 それでも、私のように小口ながら、研磨の依頼はあるはずだ。Tさんがいなくなって研磨作業はどうしてるのかと聞いたら「夜のあいだに自分がやってます」と。

 研磨以外に、木工機械のディーラーもやっているのだが、そちらの方もさっぱりらしい。木工機械の不況は、全国的な傾向とのこと。各地で木工所が閉鎖され、中古の機械がダブついてるので、高価な新品は売れなくなった。そのため、名の知れたメーカーですら、倒産が続いていると。「大竹さんが使っている機械のほとんどが、既にメーカーは無くなっているよ」と聞かされた。

 「Tさんにはいろいろお世話になった。いなくなって淋しいね」と私が言うと、オーナーは辛そうな顔でうなずいた。



ーーー4/17ーーー アクセントを付けるということ

 
これはペン皿の試作品である。全く同じ寸法であるが、ご覧の通り片方は無地、もう一方は木象眼を施してある。本体の材はクリ、象眼はブラックウォールナット。

 この木象眼の形が適切であるかどうかは、私自身も悩むところ。善し悪しは、見る人の好みにもよるだろう。しかし、明らかに言えることは、この二つの品物は、サイズや機能は同じでも、性格がはっきりと違うということだ。

 面白いもので、現在の私は、これら二つを見比べると、無地のものはもの足りない印象を受ける。象眼を入れた方が、作品としてランクが上がったように感じる。面白いと述べた理由は、以前なら逆の感じを抱いたということだ。

 以前は、木そのものの美しさを引き出す意匠にこだわりがあった。象眼などでアクセントを加えることは、木そのものの美しさを阻害するように思った。シンプル指向だったのである。

 試みに象眼を入れてみた。すると、あることに気が付いた。

 無地のものに対して、象眼のものはプラスαの手が入っている。その手の入れ方の可能性は、言わば無限にある。どのような形にするか、どのような大きさにするか。いくつ入れるか。考えだしたらきりが無い。その無限の可能性の中から一つを抜き出して実行に移すというのは、大それたことにすら思える。

 作るのは自分一人だが、作品を見る人は膨大な数となりうる。百人の人がいれば、百通りの好みがある。同じものを見ても、美しいと感じる人もいれば、美しくないと感じる人もいるだろう。また品物の魅力を、美しさではなく、暖かい風合い、懐かしい形、癒しの雰囲気、などに求める人もいるだろう。

 膨大な広がりをもつ世の人の好みに対して、無限の可能性の表現を突きつける。それは、自らの存在をみつめ、外界との関わりを認識したいと願い続ける、人間の根源的行為の一つのように思われる。  



ーーー4/24ーーー 古楽コンクール

 
春の安曇野スタイルの展示会で、チェンバロ製作者のY氏から古楽コンクールのことを聞いた。それが先週の土日に開催されたので、土曜日の朝一番で出掛けた。場所は甲府市の山梨県民文化ホール。今回で21回目となるこのコンクールは、古楽の分野では我が国唯一とのこと。対象となるジャンルは、一回ごとに交代で、チェンバロの年と、その他のバロック旋律楽器および声楽の年がある。今年はチェンバロで、21人の演奏者がエントリーしていた。

 開場に着くと、Yさんがいた。挨拶もそこそこに、Yさんの案内で練習会場に入った。

 私のお目当ては、コンクールそのものよりも、練習会場に出展される多数のチェンバロである。今回は少なめということだったが、それでも33台の楽器が並んでいた。これらの楽器は全て、誰でも自由に触ることができる。そんな中、楽器に向かって熱心に弾いていたのは、胸にリボンを付けた、コンクール出場者たちであった。 

 Y氏から聞いたところによると、曲に合わせてチェンバロを選ぶところから、勝負は始まっているとのこと。チェンバロは一台ごとに音色や響きが違う。また、形式にもいろいろある。例えば、鍵盤が一段のものと二段のものがある。形式に応じて、機能にも違いがある。それらを弾いて確かめて、課題曲の曲相に合ったもの、あるいは自分の表現にマッチした楽器を選ぶというのである。さらに、調律についても、演奏家が音階を指定することがあるらしい。ピアノのコンクールなどとは、ずいぶん違うように思われた。

 コンクールの出場者は、本選で使う楽器を、この練習会場で選ぶのである。そのために沢山の楽器が準備されている。それと同時に、この場は楽器製作者や販売業者の営業の場にもなっている。楽器が演奏者に気に入って貰えれば、ビジネスにつながるというわけだ。だから、楽器と共に製作者や技術者が詰めていて、演奏家と交流を図かり、ボランティアで調律などの作業をしている。

 一度にこれだけの数のチェンバロを目にする機会は無いだろう。しかも、自由に触って、弾いて良いのである。私はまったくの素人で、演奏などできないが、それぞれの楽器をひととおり触って音を出してみた。いろいろ違いが感じられて、おもしろかった。

 Y氏の知り合いの製作者が、一台展示していた。一緒に話をした。木工品としても、レベルの高いものがある。話を聞いて、いろいろ勉強になった。その方の話では、あまりに細かくデリケートな作業が要求されるので、ときどき放り出したくなることがあるとのこと。現物の楽器を見て、その苦労が分かるような気がした。

 例えば、弦を弾く爪の部分。僅か数ミリの長さの爪の、1ミリに満たない先端で弦を弾く。鍵盤を押すと、腕木で連動した軸が垂直に上がり、その軸に取り付けられた爪が弦を弾くという仕組み。軸が下がるときは、爪がスッと引っ込んで、弦に触れないようになっている。その爪の長さ、巾、厚さ、そして軸に取り付けられた微妙な角度が、鍵盤のタッチや音の響きを左右するとのこと。実に繊細な構造である。その構造が、寸分のムラも無い精度で作られ、鍵盤の数だけ並んでいる。鍵盤が二段あれば、二倍の数となる。気が遠くなるような仕事である。

 練習会場は、普段は会議室として使われているらしい。大きな部屋で、屋外に面した側は全面がガラス張りになっていてる。ガラス越しに、樹々の緑と、その向こうの甲府盆地を囲む山々が一望できる。うららかな春の陽光を浴びた景色を眺めながら、同時にいくつもの楽器が鳴っているものの、チェンバロの古風な楽曲を聞くのは、素敵な体験だった。

 練習会場を出て、コンクールの予選が行われているホールに入った。演奏の合間であれば、だれでも自由に出入りできる。壇上にはチェンバロが4台置かれていた。

 演奏者が次々と登場する。一人3曲で15分くらいか。課題曲がいくつか用意されていて、その中から好みのものを選んで演奏するという方式のようだった。どの演奏家も、曲によってチェンバロを換えていた。予選では壇上のものを使うが、翌日の本選では、練習会場の楽器を指定することができるとのこと。その出し入れと調律は、関係者にとってたいへんな作業であろう。

 私は一区切りぶん、4人の演奏を聞いた。それぞれ個性があって、興味深かった。しかし、チェンバロの専門的な曲目は、耳に馴染みの薄い私のような素人には、いささか単調である。朝からの遠距離の移動の疲れもあったのか、あるいは雅な古楽の世界の雰囲気のせいか、つい気持ちよく、うとうとしてしまった。





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